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江坂広告株式会社 代表取締役社長 加藤肇様へのご質問

加藤様、まずはこれまでのご経歴と、現在の江坂広告株式会社におけるお役割についてお聞かせいただけますでしょうか。 経歴 大学受験に失敗して、大阪モード学園という服飾デザインの学校に行きました。在学中に親が事業に失敗したので、学校を辞めて小さなアパレルの会社にデザイナーとして就職することになりました。今と違ってのんびりした時代で経歴と事情を説明したらすぐに正社員として雇ってもらえました。 しかしデザインの仕事をするうちに、自分には洋服をデザインする才能がないことに気がつきます。どう生きるかを考えたときにモード学園時代に習ったマーケティングの授業が楽しかったのを思い出し独学で勉強しました。そしてそのアパレル会社が目指すべきマーケティングの企画書を書いて社長に提出しますが却下されて落ち込みます。若かったので「辞めてやる」ということしか思い浮かばず、新聞の求人広告でプランナーの募集を探しました。 辞めようと思ってからそんなに期間は開いてないと思います。プランナーの募集を見つけて応募しました。すぐに販促会社【株式会社ファースト】のマーケティング部門に転職することができました。でも実は大学には行ってなかったため書類審査で落とされていたのに物好きなマーケティングディレクターがアパレルのデザイナーだと言う経歴だけで面接・採用してくれていたのです。このことはファーストに入社後、随分経ってから知りました。そのディレクターから実地でマーケティング・プランニングを学びました。 ファーストでは先輩が担当する松下電器・グンゼ産業・味の素などのプランニングのサポート要員から始まって、3年ほど経ってからは松下電器の量販店部門の担当になれるほど成長しました。当時、大阪の京橋にあった松下電気の本部によく販促プランの提案に行きました。 20代の終わりに風邪のウィルスが小脳に入り、機能障害を起こすという大病を患います。会社勤めは通勤も大変で体力が持たないという理由で独立してフリープランナーになります。ファーストが個人になった僕に仕事を出してくれたのです。病気自体は1年ほどで治りファーストを含め販促企画の会社3社にプランナーとして仕事をもらうことができました。 そんな中、従兄から「インターネット教室を立ち上げるので手伝って欲しい」という話があり個人向けにインターネット接続方法を教える教室を開くことになります。 インターネットのことを勉強し、教科書を作り実際に家電量販店の教室で接続のための先生をしていました。そのころ大阪でのプランニング業務はファーストと支払い関係で揉めてこちらから辞めさせてもらい、もう1社はメーカーの販促部門として吸収されたので仕事がなくなります。取引先が1社になり窮地に陥りました。 インターネットの教室からIBMさんと繋がりができて、東京でM商事のIT研修のサポート講師をしないかという話があり、引き受けます。それがきっかけとなってM商事IT子会社さんでデータセンター販売のマーケティング支援、ネットワーク事業部の事業企画支援とコンサルの仕事と発展します。またIT子会社さんからの要望でSEとPGを社員として雇い、開発の仕事もやり始めていました。東京に出てはどうかという話もありましたが、大阪は離れがたくこの頃から週の半分は大阪、残りは東京という生活が始まりました。 大きな問題が起こります。M商事子会社に派遣していたSEたちがプロジェクト終了とともに相次いで雇い止めにあったのです。高いSE達の給与が払えなくなりそうになった時、ある人からコールセンター会社(今は倒産していますので社名はご容赦ください)がIT部門を作りたがっているという話があり、引き受けてはもらえないかという打診がありました。CTI導入のブームになりかけの頃です。 悪い話ではなかったので私は全ての条件を飲み、その会社に合併してもらうことになります。 合併後の立場は「副社長」で仕事は「IT部門」(と言っても元の会社の部下5人ほどの小規模な部門です)の統括です。事業検討の結果CTI開発は諦めてオペレータの回答支援ソフトを作りそれを売る仕事につきます。 完成したソフトは当時の業界でも評価され販売実績を上げることができましたが、会社自体が放漫経営で(社長が一人で儲からないビジネスへの過剰投資をしていて)傾いていき、いつしか債務超過になっていました。 インターネットが隆盛になって来ていて、回答支援ソフトもインターネット化を目指しますが開発がうまくいきません。開発が止まっているのでソフトウェアの売れ行きも止まり営業不振を受けての引責辞任という形で自主的に退職します。その後、その会社は倒産します。 またこの頃、リーマンショックで東京でのM商事とのコンサル契約は一方的に破棄されてしまいます。コールセンター会社の役員もやめていたので私はフリープランナーに戻りますが、今度は働く場所がありません。年齢も高く再就職は難しかったので、グラフィックの先生をやることにしました。 先生をしながら2014年江坂広告を立ち上げます。きっかけはグラフィックを学びにきた生徒も年齢が高く雇用先が見つからなかったことです。江坂広告はその人を雇用するために作った会社です。吹田商工会議所に加盟し、小さな会社の販促支援やチラシ作り、ホームページづくりをしているうちにスモールビジネスの支援は大事な仕事なのだと気が付きました。 小売店の多くのお店はインターネット(EC)にお客を奪われています。仕入れをして店を開けてもお客様が来なくなってしまったのです。なんとか助けたいという思いが私に芽生えました。…

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